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『笑いの力』

2008 5/17 23:41

鳥居みゆき、良いですね。

完全に北国のお顔と肌の色。イッてる風の見開いた目、半開きの口、裏をかく発言、すばらしいです。『今日は黒い服で統一されてますね』に対し、『はい今日は青で統一してきました』と返す。これは深いですねぇ、実に深いです。僕は仕事柄絵を人に教えていますが、以前生徒に半分本気・半分冗談で、『りんごが赤いなんて誰が決めんだよ、たまたま俺等には赤風に見えてるだけで、実は緑かもしんないよ』と、言ったことがあります。表面に観えていることに騙されないで、もっと根本(この場合は立体の部分ですね)、を観るように、というようなことを言いたかったんです、多分。白い紙に何も描かれていない紙芝居や、そこに付いてる意味のない仕掛け。最高に深く、ハイセンスな、計算されたネタと発言で、これがアドリブでポンポン出るのなら、これこそ頭の回転の良さはまさにプロ。あの表現のあの見せ方における『プロ』だということです。で、それを見つけ出し形にできることが、人前で何かをやる(プロ)、ということだとも思うのです。

で、昨日知り合いと久しぶりに会い話したのですが『あれって本物ですよね?』と聞かれたので、『何言ってんだよ、本物な訳がないでしょうよ』と返しました。言うまでもなく、本当におかしい人ですよね?の意味で聞かれました。いやいや、あれはパフォーマンスの一環でしょうよ、ということです。

勿論なんの根拠もないです。多分、と言うかかなりの確率でパフォーマンスでしょう。亀田親子、中田英寿の引退に繋がる対ブラジル戦直後の倒れこみ&涙、どれもパフォーマンスでしょう。絶対本人は『分かって』やっていますよ。あっ、多分です。

共通の分かりやすい言葉として言います。本物の人を仕事柄目にしますが、僕が観る範囲内での本物の人は、自分が本物であることに恐れ、おびえ、できるだけ周りと自分が浮いていないかを必要以上に気にし、ましてや人前に出て何かをやろうなんて考えても、やはり行動には移せない、と言った感じです。本物がゆえにそれがコンプレックスで、それを上手いこと逆手にとって逆の方向に向けられない人、です。向けられないからこその本物、なんだとも思います。

本物、と言うか、隙間な人ですね。全体から見たら『隙間』や『間の人』になるということに、今、気が付きました。なぜなら、本当に本物な人は自分がおかしい、ということにさえ気づかないでしょうから。気づいてるいる、自意識がある時点で、病院に入るようなレベルではない、ということになります。この後も本物、と書きますが、『隙間の人』や『間の人』でも同じ意味です。

偏った部分の蓄積を吐き出すための表現や技術は、それらが自分に身につこうが身につかなかろうが、人前に立ち何かをやるという、ある種の『非現実的』な状況に自分を置ける時点で、『並』の部分が多分に同一線上にないとできない、と思うのです。して、人前に立つ場合は種類にも寄りますが、表現がなんであれ、この『並』の部分もとても重要だと思うのです。偏った部分の蓄積と、誰もが理解できる部分とのバランスです。よく耳にする、友達が一人もいない過去、なんていうのは全く珍しくもなく、それらをもバネにし何かを・・・なんていうのは、所詮こっち側(本物の、入院する必要のある状態)から観れば『ごく普通』なことでしょう。

何かを人前に出てやる、ということは良かれ悪かれパフォーマンスは必要だと思います。

昨日久しぶりに会った知り合いはこう続けました。

『自分の会社の後輩に某美大出身の子がいて、学生時代、感情を抑えられなくなり裸で学校中を走り回るヤツがいたんだけど、そのうち周りもそいつはそういうヤツなんだ、と理解し出したんだって、そういう感じの人、美大にいたりした?』、と聞かれました。

僕もその少年とお仲間?的に観られたら嫌だなぁ・・・、大変申し訳ないんですが、正直まずそう思ったんです。その少年を僕は知りません。その行動はパフォーマンスだろうな、と思うのです。絶対。あっ、多分。理由は上記した通りです。

表現の種類によりますが、このパフォーマンスの部分が『嫌味』に僕にとって感じる場合と、『自然』、あるいは『嫌味に感じない』場合とあるんです。で、その少年の行動、僕には嫌味に感じてしまうのです。知らない人のことを言って本当に申し訳ない、と思うのですが・・・。

銀杏BOYZの峯田和伸も、ライブで上がり過ぎて骨折したり、性器をさらし捕まったりしているようですが、僕には嫌味に感じてしまう種類のモノなんです。勿論直接話したことはありません。ファンの方には大変申し訳ないんですけど。ことアート、芸術にその部分が見え隠れするのは非常に微妙です。ただ、『並』の何かを見せられてもアートは面白くない、これも分かります。僕は基本的に、『こういうモノでなければならない、なんていうものはアートにあってはならない』、と思っています。アートとはこういうモノ、がもしあると、アート自体の未来がなくなるのです。栄えないし進歩もないでしょう。

人間(メディア・客、でもいいです)は飽きっぽいですから、その表現が過激になる(パフォーマンス含む)、これは誰も止めることはできないでしょう。この部分が、僕の言う『嫌味』に繋がり加速することを増徴しているように感じます。

極論を言えば、オリンピックがあるのに対しパラリンピックがある、差別ではなく『別』にちゃんとあるじゃないですか(義足の選手が短距離でもの凄いタイムを記録し、オリンピックに出場してもいいのでは?という議論になっている、というニュースを昨日たまたま見ましたので、今後はオリンピックもパラリンピックもなくなる可能性がありますが)。でもこれをアートではできないと思うのです。アートで言えば、知的障害者の描く作品(この場合は絵)と、健常者の描く作品。この2つを別にも一緒にもできない。なぜなら点数や秒数など、スポーツのように全世界の人々が共通で理解できる答え(数字)による結果が、出ないジャンルであるから。好き・嫌いで判断するしかない、それでいいんですけど。また、『アール・ブリュット』に関することは一切今回は触れません。定義に無理があり過ぎです。

ピカソはかつて『子供のように描けるようになるのに、一生かかったよ』と言いました。

一生かかっても子供には勝てない、勝ち負けじゃないですけど。子供が目標というのなら、子供が本物で、ピカソは子供でなくなったからです。つーか小学生を子供と考えた場合、ピカソほどこの行為が難しい人もいないんじゃないかと思います。なぜなら以前、ピカソが8歳の頃に描いたデッサンをピカソ展で観たことがありますが、物凄く上手かったです、言うまでもなく。8歳といえば日本では小3、十分子供だと思うのです。でもピカソ、この時点で凄いデッサン力、子供のように描きたいと思う前に、本人が子供みたいに描けていた時期が果たしてあるのか?と思う次第です。あのレベルまでいくと、一番自分にとって不可能なことを追求したくなるんでしょうかね。

子供には勝てない、ここまでは当たり前のことです。よくドラマとかでも言われる、子供を出すと絶対良いモノになるからズルい、みたいな意見に似ています。この当たり前な事実は、モノを作る人間にとって危険性もはらんでいます。

『子供の絵が目標なら、小学生に描いてもらって持ってくればいいじゃん』

に対し、

『勿論子供になんてなれない、それは分かってる、でもさ、頑張って俺は子供に近づきたいんだよ・・・(で、それにはパフォーマンスが必要なんだよ)』

とでは、明らかに後者の考え方の方が、パフォーマンスの部分は置いといても、人として幸せに感じます。で、表現に『不可能』はない、と基本的に僕は考えています。態度の部分は分かりますが、パフォーマンスの部分が気になります。凄く表面的に言えば派手な、キレぎみパフォーマンスです。自分がやる場合を想像しますと、不自然に感じるから。僕がそれに近いことをやってみたとして、自然に感じる部分は髪型だけかな。腰まであるロン毛なので。ほぼ、サダ子です。このロン毛に絵の具を着けて暴れながら絵を描くとか・・・絶対違うよなぁ・・・。

子供みたいな大人、これが限界?大人は全員以前は子供だった訳で、子供みたいな大人は結構いると思いますが、ハッキリとした何かを境に大人になる人もいれば、なんとなく大人になる人もいます。とにかく、子供ではなくなるし、子供と同じ感覚・頭で描ける大人がもしいるとするならば、基本的な人間生活はズッ~っと、送れていないはずです。要は、入院が必要なレベル以外の場合は多分恐らく、分かってやってる、範囲内でしょう。

パフォーマンスとは、全部ではないですけど元になる何かがあり(例えば、亀田親子で言えばヤ●ザ風だったり、鳥居みゆきのように病気風だったり)、その表現がスムーズか不自然か、その指針を示したかった訳なんですが・・・示せるはずもありませんでした。結局指針なんて人の好きずきなんですね。

一つ言えることは、笑いの力って物凄いです。鳥居みゆきが嫌味にならないのは、僕の好き・嫌いと言うよりも、単純に媒体が『笑い』だからだと思うのです。笑いの方向に持っていかれると、僕には自然と入り込むようです。村上隆の作品『My Lonesome Cowboy』が、16億なんていうとんでもない金額で落札されました。僕は今40歳なんですが、僕より上の世代で、『村上隆良いね』、という人に業界でお会いした試がありませんが、僕は村上作品の中でこの作品のみ好きです。厳密にはそれと対になっている、連作ともとれる『Hiropon』と、2点ですね。この2作品を超える作品は今後村上作品からは出ないのではないかなぁ・・・と思うぐらいです。なぜならこんなブラック・ユーモアな(お笑いな)作品はないと思うのです。だって髪の部分、立体だっつーのにハイライト塗ってありますから・・・、アホですよ、アホ。最高です。自分の大好きな世界を、客観的に観ることができないと出てこないアイディアです。

メディアの中心をコメディアンの人が多く占めているのも、なんだか納得してしまいました。

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